01年4月Science Book Review


CONTENTS


  • 出アフリカ記 人類の起源
    (クリストファー・ストリンガー(Christopher Stringer) ロビン・マッキー(Robin McKie)著 河合信和 訳 岩波書店 3000円 ISBN:4-00-023354-8 原題:African Exodus : The Origins of Modern Humanity, 1996)
  • <解説>からそのまま言葉を借りると、「本書は、今をときめく『アウト・オブ・アフリカ説』の主唱者クリストファー・ストリンガーとジャーナリストのロビン・マッキー共著になる」本。というわけで、内容はこれまでストリンガーが言ってきたこと──単一起源、出アフリカ、ネアンデルタールとの混血なし──をガッとまとめた感じ。ただ、訳者解説によると、最近になってやっぱり混血していたかも、という化石も出ているという。ただ、それが後世まで伝えられたかどうかはまた別だと思うけど(『失語の国のオペラ指揮者』ほかを参照)。

    以前にも全く同じことを書いた記憶があるのだが、人類進化の話はあまりにもわけがわからない感じがする。この本の訳者あとがきと本文の関係を見れば分かるとおり、すぐに新しい化石が出てきて、新説が登場するのだ。どの本を読んでもそうで、この本を通読しても、すっきりと何かが分かった感じはしない。仕方ないといえば仕方ないのだけど。

    500万年前〜450万年前、森林に覆われていたアフリカにラミダス猿人がいた。彼らが直立二足歩行をはじめたらしい。その後400万年前頃、地質学的な変動のために森林がサバンナと草原によって分断されるようになり、アウストラロピテクス・アファレンシスが登場した。アウストラロピテクス類はこのあと、アフリカヌスへと進化しつつ、かなり長い期間にわたって生き続けた。100万年前ほどまで生きていたという。

    230万年前頃、ホミニドの世界に新たな種が出現した。ホモ・ハビリスだ。彼らは大きな脳を持っていた。こちらが我々の祖先にあたる。ジャワ原人や北京原人、あるいはナリオコトメ・ボーイそのほかが現れるのはこの数十万年後で、彼らはホモ・エレクトスと呼ばれる。200万年前頃の話だ。彼らは、少なくともアフリカを出ていたことが明白である。それがどのような過程だったかはよく分かっていない。100万年前頃にはユーラシア大陸の温暖な地域に進出していたらしい。彼らがいつまで生存していたかは定かではないが、10万年前くらいまで生き延びていたという説もあるそうだ。

    40万年前頃には、後期古代型サピエンス(ホモ・ハイデルベルゲンシス)と呼ばれる類の種が現れた。本書の中核であるネアンデルタール人が出現したのはおおよそ20万年ほど前。彼らは、3万年前には消え去った。現生人類は、15万年前くらいに誕生していたらしい。氷河期のさなか、20万年前〜13万年前の間だと考えられているようだ。

    問題は、ネアンデルタール人と我々の関係である。なぜ彼らが滅んで我々が生き残ったのか。我々と彼らはどう違っていて、どこが同じだったのか。共通祖先はなにか。血の交流はあったのか。現生人類はいつ出アフリカを果たしたのか。その過程で先行者との間で何があったのか。著者はこの問題を幅広く論じているが、回答を得ることは難しい。

    現生人類は10万年前にはアフリカにいたが、その後、長い間、各大陸に進出できなかったらしい。ミトコンドリアDNAの研究の結果分かった遺伝子の均質性から、10万年前に、人口圧縮が起こったと考えられている。つまり、絶滅しかかった。そのとき人類は、おおよそ成人人口で1万人ほどだったという。20万年前には10万人くらいはいたと考えられているそうだから、何事かが、そのとき起こったのだろう(一説によれば火山の大噴火に伴う寒冷化だという)。いま生きている我々は、当時生き延びた1万人の子孫なのだ。

    この本に限らず、人類進化の本は幅広い知見に基づいて書かれている。いろいろ関連書を漁ったあとに、もう一度読み直せば、より面白く読めるかもしれない。


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  • パラサイト・レックス 生命進化のカギは寄生生物が握っていた
    (カール・ジンマー(Carl Zimmer)著 長野敬 訳 光文社 2000円 ISBN:4-334-96105-3 原題:Parasite Rex, 2000)
  • サブタイトルは要するに『赤の女王』の話なんだけど、ちょっとオーバーかな。でも、寄生生物面白いでしょう、と、ただ言うだけの本ではない。寄生生物と宿主の化学生態学的な関係が実に面白い。寄生生物たちの恐るべき、そして精緻きわまる適応の姿はまったく素晴らしいものがある。日本の寄生虫学者が書いた本に食傷している科学書読みも、これなら楽しく読めるに違いない。16ページにわたる口絵に収められた電子顕微鏡写真もすごい。まさにエイリアンである。

    ありとあらゆる生物に寄生虫がいる。そして寄生虫たちは、それぞれのニッチを別の生物の体内で獲得するために様々な工夫をこらしている。

    サナダムシは全身の皮膚から栄養を吸収しながら、腸を上流に向かって泳ぎ続けるか、頭にある鈎でしっかりと腸壁にへばりついている。鈎虫は血液の凝固を防ぐ因子を自ら放出して血を摂る。マラリア原虫は赤血球の内部を自分の都合のいいように作り替えてしまう。改造された赤血球は寄生虫を増やすための材料搬入のためのチャンネルや管で溢れかえる。旋毛虫は筋肉細胞を徹底的に作り替え、巣作りのための材料ばかりか栄養まで運ばせてしまう。フィラリアの幼虫は、ふだんは体内の毛細血管のなかで暮らしている。ところが彼らは夕暮れ時、蚊が宿主を刺す時間帯になると皮膚のすぐ下まで上昇してきて、蚊に吸い上げてもらうのを待つ。

    寄生される宿主のほうも黙ってはいない。免疫系は寄生虫に反応する。ところが寄生虫たちは一枚上をいく。たとえばサナダムシ卵が入ってきたのを感知した免疫系が抗体を作りだしたことには幼虫は脱出してしまう。そして免疫系の邪魔をする分子を放出する嚢子を作り、防御をしっかり固めてしまう。嚢子を分解するための補体は、組み立てられるまえに分解される。挙げ句の果てにサナダムシは免疫系の信号を妨害し、抗体を作るようにさせ、さらに放たれた抗体を食べてしまう。寄生虫と宿主の、分子レベルでの激戦には驚くほかはない。

    脊椎動物だけではない。昆虫の世界でも闘いが行われている。寄生蜂コテシアは、芋虫にスープ状の混ぜモノと一緒に卵を産み付ける。このスープは数百万のウイルスで、卵を免疫系から守る。このウイルス自体の出自はさらに変わっている。蜂は、生まれたときからこのウイルスの遺伝情報をDNA上に分散させて持っている。雌が蛹になり、変態するときにウイルスのDNAが覚醒し、卵巣の細胞の一部でウイルス自身が繋ぎ合わされて製造される。やがてウイルスは蜂の体内をうろつきはじめるが、蜂に悪さをすることはない。芋虫に植え付けられたとき、ウイルスは芋虫の細胞に新しいタンパクを作らせ、それが芋虫の免疫系を破壊する。こうして蜂は子孫を残していく──ウイルスのDNAを体内に宿したまま。これが本当にウイルスなのか、それとも蜂が獲得した飛び道具なのか、真相は分からない。

    だいたいここまでが、頭から1/3までの内容。さらに本書は、寄生虫が動物の行動を変えているのではないかという最近の寄生虫学者たちの考え方を紹介する。このへんは、検証がなかなか難しいようだが、統計的には有意な結果が出始めているようだ。日本でもこういう研究をしている人はいるのだろうか?

    残りは、あたまに書いたように『赤の女王』的な話になる。進化の軍拡競争や、性は、寄生虫と闘うためによりよい戦略だったのだろうという話だ。寄生生物が宿主を多様化におしやったのだと著者はいう。まあ、これは考え方次第かなあ。

    いくつかの寄生虫は、ヒトの免疫系を巧みにだましおおしている。これは、もしそのメカニズムが解明されれば、免疫抑制剤なしで、臓器移植が可能になるかもしれないことを意味する。もちろん逆もまた然りで、彼らが人体の免疫系をすり抜けているメカニズムが分かれば、将来的には寄生虫を駆逐することができるかもしれない。著者によれば、マラリアや腸内寄生虫など主要な寄生虫は毎年8000万生活年を奪っているという。生活年とは、病気によって失われた健康な生活の年月を見積もる尺度である。これはほぼ結核に匹敵するという。

    ヒトのサナダムシはライオンとハイエナを最終宿主にしているものに最も近縁、という話は面白かった。つまりヒトは、肉食動物のあとを追い、彼らが殺した死体をあさっていたのだろう、そして寄生虫も一緒に拾ってしまったのだろうという話だ。おおよそ100万年前くらいの話らしい。


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  • 人間性なき医学 ナチスと人体実験
    (アレキサンダー・ミッチャーリッヒ、フレート・ミールケ 編・解説 金森誠也・安藤勉 訳 発行:ビイング・ネット・プレス 発売:星雲社 2300円 ISBN:4-434-00921-4 原題:Medizin Ohne Menschlichkeit)
  • 1949年に刊行された、ニュルンベルク裁判記録の抄訳。ひたすら、ナチスの悪逆非道としか言いようがない犯罪的実験行為の描写が続く。暗澹たる気分になる。実験は、まさに筆舌に尽くしがたい非道さで、とても書く気になれない。訳者らがいうように、彼らは知性高いエリートコースの人間だったはずなのである。ヒトの持つ残虐性の発露、あるいは人間を単なるモノとして扱える心の動きに、人間というものの得体の知れなさを感じずにいられない。


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  • 脳を知りたい!
    (野村 進(のむら・すすむ) 著 新潮社 1500円 ISBN:4-10-444501-0)
  • この本の書評は「SPA!」に書いたので、またそのうち。


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  • 虹の解体 いかにして科学は驚異への扉を開いたか
    (リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins) 著 福岡伸一 訳 早川書房 2200円 ISBN:4-15-208341-7 原題:Unweaving the Rainbow : Science, Delusion and the Appetite for Wonder, 1998)
  • ニュートンはプリズムで光を分解してみせた。だが詩人ジョン・キーツらは、“虹の持つ詩情を破壊した”とニュートンを非難した。これと同じことは現在も起こり続けている。それでドーキンスは──故カール・セーガンがやっていたように──、そんなことはないんだよと説きたくなった、らしい。そのための素材は、虹や視覚の仕組みはもちろん、DNA鑑定や確率の考え方が持ち出される法廷や、超能力やエセ科学を信じたがる心、「根拠のないいわゆるカルチュラル・スタディーズ」、そしてやっぱりグールドの使うレトリックの批判などに及ぶ(258ページ以降)。グールド批判のためにスチュアート・カウフマンの『自己組織化と進化の論理』の記述までついでに斬っている。

    後半はちょっと余計だが、前半、特に序文と第一章には、まったくそのとおりだ!と意を強くする人が多いのではなかろうか。まるで科学者たちと科学ファンを前にして、高らかに演説しているようである。しかも行間から「そうだ!」という合いの手の声が聞こえそうなトーンである。いくつか引用しよう。

    本来、生きる意味に満ちた豊かな生を科学が意味のないものにしてしまう、という非難ほど徹底的に的はずれなものもあるまい。そういう考え方は私の感覚と一八〇度対局に位置するものだし、多くの現役の科学者も私と同じ思いだろう。しかし、私に対するそのような誤解のあまりの深さに、私自身絶望しかけたこともあったほどである。だが本書では気を取り直し、あえて積極的な反論を試みることにした。ここで私がしたいのは、科学における好奇心(センス・オブ・ワンダー)を喚起することである。というのも、私に対する非難や批判はすべて、好奇心を見失った人々に由来しており、それを考えると心が痛むからである。私の試みはすでに故カール・セーガンが巧みに行ったことでもあり、それゆえに彼の不在がいまはいっそう惜しまれよう。ともあれ、科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が感得しうる至福の経験のひとつであるといってよい。それは美的な情熱の一形態であり、音楽や詩がわれわれにもたらすことのできる美と比肩しうるものである。それはまた、人生を意義あるものにする。人生が有限であることを自覚するとき、その力はなおさら効果を発揮する。(8ページ)

    私たちは特別な優遇をうけた存在であるが、その優遇はこの惑星上で快適に生活できるということだけではない。自分たちが生存している短い時間の間に、私たちは自らの生を認識し、その意味を理解することができる機会が与えられているのだ。
    しばしば狭量な評論家が質問する──科学の役割とはいったい何か、と。いま述べたことが答えだと私は言いたい。誰が書いたのかはっきりしないが、こんな逸話がある。あるときマイケル・ファラデーが同じ質問を受けた。科学はいったい何に役立っているのか、と。ファラデーはこう質問しかえした。「では生まれたばかりの赤ん坊はいったい何に役立っていますか」。別に話の主人公がベンジャミン・フランクリンであろうが誰であろうが、この話の謂は、赤ん坊は今の時点では何の役にも立っていないけれども、未来に対しては大きな可能性を秘めているということだろう。私は、この話に別の意味を見いだすことができると思う。この世に生まれた赤ん坊の役割は、確かに職を手につけて働くことであろう。しかし、すべてのものごとの判断基準をその“有用性”だけにおき、生を受けたことの有用性は生きていくために働くことというのなら、それは不毛な循環理論にしかならない。生を受けたことの意味を問うのなら、何らかの価値がそこに付与されなければならない。生きるために働くといった目的本位な説明ではなく、生きること自体になんらかの意義づけが必要である。(中略) もちろん科学は利潤をもたらし、科学は役に立つ。しかし、それが存在意義のすべてではない。(21ページ)

    科学はとても楽しく面白いもので全然難しくなんかない、といういい方で科学を啓蒙すると結局、将来、どこかで失敗が起こるのではないかという気がする。本当の科学は必然的に難しいものであり、それゆえに積極的な意味でチャレンジングなものとなりうるのだ。(43ページ)

    しかしなお、凡人に科学の知識がないのは、場合によっては、格好がいいことだとかよいことであると思われている節があるようだ。(56ページ)

    こんな感じでドーキンスは、科学の敵をバッサバッサと斬りながら、ブルドーザーのように進む。

    ただ、これでは、おそらく一般人の啓蒙はなかなか難しいと思うのだ。もともと興味を持っている人がさらに興味を持つようになることはあるだろうが、もともと興味を持っていない人がこういったやり方で興味を持つようになるとは、残念ながら思えない。

    もう一つ重要なことがある。おそらく、ドーキンスのようなやりかたでは、ある種の教養人──たとえばサイモン・ジェンキンズのような人を納得させることはできないだろう。ジェンキンズは科学の批評家で、ドーキンス曰く「誰よりも手強い論敵」である。ジェンキンズは「科学書が人間を鼓舞しえるものであること」には賛成だが「義務教育の科目として科学が高い位置にあることには反対している」という。1996年、彼はドーキンスにこういったそうだ。

    私が読んだ科学書の中で役に立つと思ったものは本当にほとんどありませんでしたね。しかし、そういったものが私の中に残した印象は、興味深いものがあります。実際に自分の身のまわりの世界が、これまで実感していたよりもずっと豊かであり、はるかに驚きに満ち、すばらしい場所であるのだと私に感じさせてくれたんですから。私にとっては、これが科学の意味です。SFが人々に抗しがたい魅力をもち続ける理由も同じでしょう。最近、SFのテーマが生物学へと移ることにとても興味をそそられるのも、その点にあります。科学には語るべきすばらしいストーリーがあると思う。しかし、それは役に立つ、という意味ではないんです。経営学や法学、あるいは政治学や経済学といった学問のような意味で有益ではないんですよ。(63ページ)
    私自身、これとそっくりの答えを返されたことがある。私は十分に反論できなかった。ドーキンスは、ジェンキンズの考え方は独特だからといって「深くは追求しないことにする」と述べている。たぶんこれは「逃げ」だ。

    たとえば、私の大学時の指導教官は、風景を見ていれば飽きることがないと言っていた。その地形がどういう歴史的背景を持っているか、内部構造はどうなっているか、彼には「見えて」いたのだろう。また地質学をちょっとかじった人間なら、そこらへんの河原の石や庭石が、どんな岩石で、どういう由来を持つものなのか、頭に思い浮かべることができる。それは世界が広がったような、素晴らしい感覚だ。だが確かに、経済学やMBAのような意味で「役に立つ」ものではない。いわば、音楽や絵画が私たちの生活を豊かにするのと同じような意味で我々の心を豊かにしてはくれるけれども。では科学も、現在、芸術科目が追いやられているような授業時間で十分なのではないか? これに対して有効に反論するのは、意外と難しいように思う。

    この本のなかには何度も「センス・オブ・ワンダー」という言葉が登場する。訳者はそれぞれに、いろいろな訳を考えたようだ。「畏敬の念」というのは、なかなかはまっていると思った。


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  • 立花隆サイエンスレポート なになにそれは?
    (立花隆(たちばな・たかし) 編著 朝日新聞社 940円 ISBN:4-02-257601-4)
  • 休刊になった科学雑誌「サイアス」に連載されていた<立花隆・100億年の旅>の特別版。なんと「旧石器発掘ねつ造事件」とノーベル化学賞受賞者・白川英樹博士へのインタビューというデカイテーマを同時にやってしまう荒技である。そのほか巻末には、研究者たちの投稿・寄稿を収録している。

    白川氏のサボテン温室に研究成功の秘訣を感じたという話が面白い。もちろん立花隆という人──平たくいえば、この人は「オタク」なんだと思う──の「モノの感じ方」が面白いということもあるんだけど、理由はもう一つある。サボテン温室に入ってなんだか実感できたというのは、きっと本音なんだろうなあと思ったから。そんなもんなんだよな、インタビューって。だからこそ、直接会う意味がある。

    白川氏は著者によるとインタビューしづらいタイプの人らしいが(淡々と答えるそうだ。確かにこういうタイプの人の場合、のせるまでには質問を次々に繰り出すか、なんとも言えない沈黙に耐えるしかない。それだけの度胸が必要になるので大変)、こういった、全然違ったことから、いきなり分かったような感じがすることがある。そして、その独特の感覚がないと、取材しても文字にしづらい。逆に、その感覚が強烈であれば、いきなりガーッと原稿ができてしまったりする。事実だけなら論文を読んだり本を読んだりすればいい。でも、その「実感」を掴みたいから、ライターなりジャーナリストなりは、現場に足を運ぶ。

    ねつ造事件においても、その「実感」のようなものは関わっていたのだろう。ねつ造を行った藤村氏には、石器を見つけられないプロの考古学者がバカに見えたんじゃないか、と、あるアマチュア考古学者が語るくだりがある。あの事件は色々な背景があるわけだが(しかもどれもこれも暗い)、一つには、そういう気持ちがあったのではないのかというのだ。藤村氏は、僕には数万年前の地形が見えるんだと言っていたらしい。これは彼のいいかげんさを表す言葉として使われることが多いけど、たぶん本当に彼には見えていたんじゃないかというのだ。僕も多分、これは本当だと思う。根拠はないけど、数万年前の地形が想像できる人は、地質系の人にはいっぱいいる。ただし、ある種のセンスが必要だが。なにか、感覚のようなもの。

    もちろんこの「感覚」という奴は別に超能力でもなんでもなく、それまでの蓄積と、その統合の結果として現れるものだ。それがどうしてもできない人がいる一方で、なかには、不思議とセンスがいい人がいる。そして、運もある。本書巻末の研究者投稿のテーマは「セレンディピティ」。求めているものとは違うのだが、別のものを幸運にも発見する才能、あるいはそういった事柄そのものを指す言葉だ。よく言われていることだが、セレンディピティは、求めてやってくるものではない。だが、ボーっとしている人の前には決して訪れない。普段から注意深い人、何かが起こったときに適切に対処できる人のみに訪れる。それは何か、やはり不思議な感覚のようなものなんだろうと思う。

    最後に脱線するが、セレンディピティに関する投稿者の一人、田口善弘氏が面白いことを書いているので紹介しておく。田口氏は、本当にセレンディピティと呼ぶべきなのは発明・発見者の意図を超えて発展したものであり、その文脈でいえば、20世紀最大のセレンディピティは「バザール」方式で維持されているインターネットであると述べている。

    そしてさらに、今後は報道、教育、研究など全ての分野がバザール方式にとって代わられるという。研究のバザール方式とは何かと思う人もいると思うので、以下、引用する。

     例えば、私にとって一番身近な「研究」ならば、現状ではある特定研究者(集団)が研究を貫徹し、著者名を伴った論文の発表という形で公開している。しかし、今後はもっとオープンに研究の途中経過をどんどん発表して、いつの間にか理論ができていく形が主流になっていくだろう。これを妨げているのは、いい研究をした個人に金と名誉が転がり込む評価システムだが、ビル・ゲイツがインターネットに負けたように、研究者の世界でも従来型の研究(=伽藍)はバザール型の研究にいずれ負けていくことを確信している。
     近い将来、誰がどの研究をしたか、ということはあまり問題ではなくなり、研究は加速し、よりオープンで柔軟な研究体制が構築されて行くはずだ。つい昨日も脳のfMRIデータをCD-ROMでアメリカから取り寄せたばかりだ(しかも無料)。まったくの部外者が生データを手にするなど一昔前なら絶対にあり得なかった。まさに、いま、研究のあり方自体が劇的に変わろうとしているのである。
    これが、研究のバザール方式である。伽藍=企業、バザール=研究者コミュニティというわけではない。発表システムや評価システムが旧来然としていれば、それは「伽藍」である。本当の意味でのバザール方式の研究が成立するのかどうか。研究者の方々、どう思いますか?


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