「DOS/Vmagazine」掲載書評『接続された心』

99年3/1日号掲載

『接続された心 インターネット時代のアイデンティティ』

シェリー・タークル、早川書房

電子社会に生きる人々の心

 人々はコンピュータをどのように捉えてきたのか、どのような影響がフィードバックされてきたのか。そしてオンライン・コミュニティーに生きる人々の心はどのように変わりつつあるのか、ということについての論考である。

 著者の立場は「マシンが何をするかよりも、人々がマシンをどう思うかのほうが重要」というものである。つまりマシンが実際にどう動作し、アルゴリズムがどう動いているかということよりも、マシンの「操作」そのものを我々がどう感じ取り、イメージし、認識するかの方が大事であるというものだ。

 原著が出たのが1995年。訳出があまりに遅すぎた。当時は先鋭的で優れた言説だったのかもしれないが、今となっては過去の記録を読んでいるようだ。

自己という境界線

 オンライン・コミュニティーや人工生命の出現などに伴って、様々な境界が揺らいでいる。例えば、自分とは何だろうか? オンラインにいるほうが「生き生きしている」と感じる人がいる。彼・彼女にとっては、接続された状態のほうが本来の自己に近いのではないか? たとえ、オンラインでは現実世界とはまるで違う性格・性別を持っていたとしても、だ。では一体自己とは何だ? いま我々はこのような形而上の疑問に、真正面からぶつかっている。これが著者の主張である。

 確かに、このような悩みにぶつかっている人もいる。心理学者には面白いテーマだろう。だが、一般のネットワーカーは、そんなことはほとんど気にしていない。もっと気軽にネットで遊んでいる。「現実」と「ヴァーチャル・コミュニティー」といった形での分離分割は、そこには見られない。

 我々はもともと、ペルソナを使いわけていたのだ。ネットの出現は、その場所が単に一つ増えたに過ぎなかった。それがこの数年間で証明されてしまったように思える。著者は「多重でありながら一貫性をもったアイデンティティ」を実証したのがホームページであるという。確かにそのとおり、だが現実を振り返ってみたとき、こういう表現はオーバーで滑稽に見える。

 アイデンティティやパーソナリティというものは、もともと非常に動的かつ多面的で、流動的でありながら強靱なものなのだ。如何にコンピュータや「ヴァーチャル」なものに違和感や恐怖を覚える人がいようと、ほとんどの人は、そんなものは簡単に乗り越えてしまうのである。人のアイデンティティはタフだ。

 だが、今だからこそ、そのあやふやな境界を見つめられるのかもしれない。オンラインとオフラインはさらに溶け合っていく。過去や経緯を辿ることはますます難しくなっていく。だから、ときどき過去を振り返ってみるのも悪くない。コンピュータは今後も喚起的であり続ける。


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