「DOS/Vmagazineカスタム」<森山和道の科学的態度>第5回(最終回)

2000年03月号掲載

『コンピュータと記憶』

いきなり最終回

 フィリップ・K・ディック原作、リドリー・スコット監督の映画『ブレードランナー』は、<記憶>というものが如何に「自分とは何か」「現実とは何か」といった感覚に重要な意味を持っているかということを印象的なビジュアルと共に示した傑作である。

 だが<記憶>とは何なのだろう。

 いきなり最終回になってしまった今回は、コンピュータと記憶ということを題材にして、その辺をちょっと考えてみたい。

記憶と記録

 かといって、別にハードディスクの話をするわけじゃない。コンピュータは<記憶>を持てるようになるのだろうか、という話だ。

 何いってんだあんた、と言われてしまいそうだが、現在のコンピュータが持っているのは<記憶>じゃなくて<記録>、memoryというよりrecordというべきものだろう。ただし、この問題意識があたっているのかどうか、私にもよく分からないのだが。

 ただ、一つ言えることがある。コンピュータの登場と普及によって、我々は<記憶>というのは○○メガバイトといった単位で「測れるもの」で、右から左へ移せるものだと無意識のうちに思いこんでいる。だがそれは正しいのだろうか。どうも違うような気がする。人間の記憶は多分そういうものじゃない。

 今になって考えてみると、最初にコンピュータを造ったときにプログラムやデータを内蔵する部分を「メモリ」と呼んだのは間違いだったのだ。その結果、われわれの中に無意識の思いこみが生じた。ちょっと歴史を振り返って、コンピュータと記憶、あるいは記録と記憶について雑想してみよう。以下、やや当たり前の話が続くが、再確認のための復習だと思って欲しい。

コンピュータと人間の記憶

 コンピュータは登場したときから「記憶」と不可分であった。単なる計算機ではなく、計算方法をメモリに内蔵したのが(ノイマン型)コンピュータだったのだから当たり前だ。

 ではコンピュータとはいったい何で、どんなことができるのか。コンピュータはプログラムやデータをメモリに取り込んで実行する。つまりメモリは作業スペースである。コンピュータは自分の動作を決めているプログラム内容自体を自分で変更しながら実行することが可能だ。このためプログラムを内蔵したコンピュータは、万能性を持つことになった。原理上、アルゴリズムすなわち計算手順で表現できるものなら何でも処理できると考えられている。

 コンピュータの記憶=内部状態は入力に応じて遷移する。つまり記憶は入力に応じて書き換えられ、出力は入力と記憶に応じて出てくる。これがコンピュータであり、コンピュータの記憶だ。

 いっぽう人間はどうなっているのだろう。脳では、記憶は大脳辺縁系にある海馬を通して何らかの処理を受けたあと、大脳新皮質のニューロン同士の結合パターンの形で保存されていると考えられている。脳のニューロン網は、いくつかのニューロンが興奮すると隣のニューロンも興奮するようにできている。こうして連想型の記憶読み出しは成立しているらしい。つまり一つの回路網が少しづつパターンを変えることによって、複数のことを覚えているらしい。書き込むときもコンピュータがアドレスを定めて正確に書き込んでいるのとはだいぶ違って、脳はかなり適当に書き込んでいるようだ。

 だがそれでも、記憶の貯蔵、検索、付加システムといった言葉が、脳の記憶の研究者によっても使われることがあるように、脳とコンピュータには類似点も多い。

 これ以外にも「短期記憶」と「長期記憶」、ワーキングメモリ、意識にのぼる「顕在記憶」と意識にのぼらない「潜在記憶」「手続き記憶」「情動記憶」「メタ記憶」といった言葉を聞いたことがある人も多いと思う。ここではいちいち一つずつ解説することはしないが、興味がある人はウェブサイトなどで適当に検索して欲しい。すぐに情報が見つかるはずだ。記憶の奥深さと面白さが分かる。

そしてコンピュータは記憶を持てるか?

 さて閑話休題。今回のテーマは、コンピュータは(記録ではなく)記憶を持てるか、だ。記憶といってもやたら曖昧なのだが、私は要するに、コンピュータは「意味」を「理解」することができるのだろうかということが言いたいのである。なぜなら「記録」を「記憶」にするためには意味の理解が必須だからである。

 記憶研究における概念の一つに「陳述記憶」と呼ばれるものがある。これはさらに「意味記憶」と「エピソード記憶」に分けられている。

 ここで問題にしたいのは「エピソード記憶」である。意識的に思い出して、陳述することが出来る記憶のことだ。かくかくしかじか、こういうことがありました、と語れる、いわゆる狭い意味での「記憶」のことだが、これこそが人を人たらしめている記憶だと言っても良いだろう。「過去の思い出にひたる」という行為は人の専売特許であると考えられている(一般的には。動物もひょっとしたら持っているかもしれないが、その話も横に置く)。

 もしコンピュータがこれをしようと思ったら、どんなことが必要だろうか。

 話を分かりやすくするために、ロボットとしよう。そのロボットはカメラやセンサーを持っており、その気になればありとあらゆる出来事を記録できるだけの容量を持ち、あるイベントを経験することで、条件付けを自分で変えることができる、つまり学習できるとする。彼は記憶を持つと言えるだろうか? もちろんロボットの研究者たちはイエス、と言うかもしれない。だが彼はエピソードを覚えることができるのだろうか。

 あるエピソードを覚えるとき、どうするだろう。我々は身の回りで起こる出来事を、丸ごと覚え込んでいるわけではない。そもそも、エピソードをエピソードとして認識しなくてはならないのである。つまり「あのとき、ああだったよね」ということを思い出すためには、起こった出来事をイベントであると認識しなくてはならない。

 つまり、ある種の標識を「記録」に付加したものこそが「記憶」であるということだ。そのためには情報を記録するときに何か重みづけが必要だ。人の場合、その役割を果たしているのは感情だろう。そしてもちろん、重みづけのためにもまた別の種類の知識ベース、別の記憶が必要だ。こうしてグルグルと話は回ってしまう。だが人間や動物はなんとかやっているのだから、何か方法はあるはずだ。そう思いたい。  そしてもう一つ重要なことは、時間の流れを把握できなくてはダメだということ。過去を過去、現在を現在、未来を未来として把握できなくてはならない。現在のロボットはこれができない。いくら時計を内蔵していても、彼らには時が流れていない。連続する現在があるだけだ。時を把握できるようになったとき、そのときこそが、コンピュータが記憶を持てるときなのかもしれない。

人を人たらしめるもの、記憶

 記憶を持つということは、人生、人格を持つということだ。たとえば最近ドラマで大流行の多重人格は、記憶障害の一種だと考えられている。記憶が一つに統御されないがために起こった見かけの人格分裂現象、それが多重人格ではないか、そういう考え方があるのだ。中には自分自身の中で突然記憶が断絶し、ある年齢に突然退行してしまうという珍しい記憶障害(あるいは多重人格)もあるそうだ。飛び飛びの年齢を生きていた患者さんの認識の中では、「世界」がいきなりタイムスリップしてしまうわけだ。実際に切り替えられているのは記憶へのアクセスなのだが、それは主観的には分からない。

 人間を人間たらしめている記憶とは一体なんなんだろう。






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