大学物理教育3つの課題

大学の物理教育』誌1998-1号掲載原稿

森山和道(フリーランス・ディレクター)
moriyama@moriyama.com


 私は大学関係者でも直接教育に携わっている者でもない。それらの人(皆さん)に取材し、日々の愚痴を聞くことを生業とする者である。本稿の依頼は<大学の物理教育>に関して外部から見て何か言え、ということであった。基本的に本誌の読者は物理学のみならず教育一般にも関心を持っている人々であると思う。その前提で話を進めていきたい。

 私のみたところ、大学における物理教育には3つの問題がある。
 まず第一は、大学の大衆化に伴う学生レベルの低下である。
 第二は、大学以下の学習課程、カリキュラム変更が大学教員に伝わっていないことである。
 第三は、これらのことを問題意識として抱えない教員がいることである。

 これらの問題を念頭に置きつつ、まずは大学物理教育とはどういうものなのか、考えてみたい。

 大学物理教育──この3つの文節からなる言葉を分解してみよう。この3単語、あるいはその組み合わせの中で、もっとも意味を持っているものは何か。大学か?物理か?教育か?あるいは物理教育か?それとも大学教育か?あなたは、この内のどれに、もっとも意味を見出しただろうか?

 そこには、あなた自身の問題意識が投影されている。「物理教育」に意味を見出した人はおそらく、物理をどう教えるべきなのか、あるいは物理が教育にどういう影響を与えるか、といったことに興味のある方だろう。また「大学教育」に興味を持つ人は、大学とはどうあるべきか、どういう教育をするべきところか、といった事に興味を持っている方だろう。私は本稿では「物理教育」「大学教育」両者を包含する「教育」にもっとも意味を感ずるので、そこにポイントを置いて論を進めたい。そして大学の物理教育とは何をどのようになすべき場なのか、考えてみたい。「大学という場がどういう場であって欲しいか」、市井の声のごく一部だと思ってお読み頂ければ幸いである。

 大学とは、入学を希望した学生が所属する教育機関である。同時に研究機関でもある。そして、社会の中で「社会教育」的役割を果たすことを期待されて存在している、ある種の公共性を持った場でもある。以上3点が大学という場であり、その役割であり、各教員の給料はこれらに対して支払われている、と私は考えている。それぞれについて順に考察する。

 まず第一に、学生の教育機関としての大学について。大学まで、つまり高校までの物理(理科)教育と、大学での物理教育との間には大きな違いがある。まずこの点を念頭において頂きたいと思うのだが、高校までの理科教育は、研究者を育てるためのものではない。理科的、あるいは科学的なものの見方と考え方の基礎を、バランス良く身につけるための場である。必ずしも専門的知識を身につけることが全てではない。これが実際上有効に機能しているかどうか、この点が今まさに「理科教育」問題として論じられている問題の、焦点の一つであることは周知の通りであるが、ここでは話題を大学に限定しよう。

 「大学教育」は「高校までの教育」の延長にあると同時に、不連続な存在でもある。大学で積極的に深く物理を学ぼう、あるいは研究しようという事と、「教養として物理を学ぶ」事との間には、連続的ではあるが大きな違いがあるからだ。そしてこの溝は、学生と教員の間の意識の違いとしてあらわれる。具体的な事象としては、学生の授業態度として現れるわけだ。

 大学での物理教育は、基本的に研究に必要な知識を身につける為に存在する。それと同時に多くの教員は、研究者的な考え方を身につけさせることができれば、と考えていることと思う。つまり「学生の多くが研究者になること」を想定して講義が行われている。

 では、授業を受ける学生側はどうか。繰り返すが、問題はここにあるのだ。必ずしも全ての学生が研究者になりたいと思っているわけではない、ということに多くの大学教員は気が付いているのだろうか。私は時折疑問に思う。科学者や技術者の養成は高校までの理科教育の目的ではない。そうやって教育を受けてきた人間のギヤを、いきなり「研究者」に入れようとしても、エンストしてしまう。それでもこれまではなんとかギヤははまってきた。あるいは入らなかった場合は無視されてきた。そのツケが今頃回ってきたのだ。

 大学側からすれば、研究者を養成しようと思って講義して何が悪い、そういった考え方もあるだろう。そもそも大学には、みんな望んで入ってくるのだから。それも頷ける。だが本当に、大学教育とはそのようなものなのだろうか。いや、研究者の養成というものは、そのようなものなのだろうか。研究者になろうと思って入ってくる学生は自分で勉強もする。乱暴にいってしまえば、ほったらかしておいても研究者になる。問題はモチベーションもなく、「なんとなく」大学に入ってくる学生たちなのだ。「なんとなく」入ってくるような学生はいらん、そういう考えの先生は、入試の時にその旨学生にちゃんと伝えることだ。いらん、といっても、そういう学生は現実問題として入学してくるだろうが。そして実は、彼らにも全くモチベーションがないわけではないのだ。例えば、もちろん物理学科に入ってくる学生ならば、皆、物理は好きだろう。大学で勉強すればもっと楽しくなるかもしれない、と彼らは思っているかもしれない。

 だが、その「好き」にもいろいろと種類がある。「なにが好きなのか」という点が問題だ。好きなのは物理そのものではなく、ひょっとしたら「物理の試験問題を解くこと」かもしれない。そうするとおかしなことになってくる。

 最近、多くの大学教員が嘆く点は二つである。
 (1)近頃の学生は抽象化の能力に欠けている。そして
 (2)抽象と具象を結びつけることができない。
 この2点だ。
 計算はできる、だがそれを具象に戻すことができない。ひとたび詰まると自分で問題解決することができない。具象から本質を取り出すことができない。そういう学生が増えているという。

 物理の場合、ある事象をモデル化し、数式を解く、というのは非常に重要な、それがないと何も始まらないような基礎的な能力だ。その能力が最近の学生には欠けている、という。さらにそれに輪をかけるように、高校のカリキュラムや大学の入学試験の変更のため、物理や数学を十分身につけずに入学してしまう学生が増えてきた。その結果、大学に入学した後、大学の講義を受けるための補習をしないといけない、という有様。いきおい、「高校までの教育機関では何を教えているのか」ということになる。「どうしてこんな学生が大学にやってくるのか」、と。一方、高校以下の教育機関から言わせれば、大学の試験のせいだ、となってしまう。一度入れた生徒にはそちらで責任を持って下さいよ、と。こうして議論の応酬がしばらく続き、時々文部省への批判がまじり、最後には、みんなとにかく頑張りましょう、という究極の答えが出て、終わり、となる。堂々巡りである。

 原因はどうあれ、問題としての現象はそこにある。消えることもない。抽象化の能力も持たず、モチベーションもない学生達は入学し続けてくる。この現象は現象として、認めなければ始まらない。そして彼らにも可能性はあるのだ、入学してきたのだから。

 こういう学生に、いきなり独りよがりな講義をしたら、彼らはあっさり研究者への道を捨ててしまうだろう。残るは大学卒業の紙切れだけである。彼らにとって「大学物理」はただの通過点に過ぎない。そうして社会へでていく。最後にツケを回された社会が、インパクトを受ける。彼らを「見ないことにする」教員からすれば、それも仕方ないことだろう。

 だが、本当にそれで良いのだろうか?私にはどこか歪んでいるように思える。これでは、大学は社会人のための教育の場ではなく隔離された環境であり、そして専門物理はその道に進まなければ全く利用することがない「特技」となり果てる、ということではないか。大学院に進学しない限り、大学物理は小さい頃に誰もが習う「そろばん」や「習字」のようなものになってしまう。いや、特技になるのならばまだ良い。特技にすらならなかった学生はどうなるのか。彼らは実力がなかったのだ、そうやって切り捨ててしまって良いのだろうか?専門物理教育の大半は大学院で研究をするため、あるいは、企業の研究開発部門などで実務を行うためのツールに過ぎないのだろうか?しかもその「ツール」は随分古いものだったりするわけだが。

 大学院で「使える」学生ばかりを集め、養成することだけが大学の役割ではないはずだ。大学は大学で完結し、その中で学問の面白さを伝えられるものでなければならない。せめて、学生の知的好奇心を満足させるものでなければならない。でなければ、高等教育の場とは言えないだろう。

 やっている、そう仰る先生方も多いと思う。だが学生は本当に満足しているだろうか。大学での物理教育と、高校までの物理教育の違いを理解しているだろうか。学生が欲する知識を把握しているだろうか。学部生が実際に学ぶことは古くさい(と、学生が感じる)ことに終始していないだろうか。「学部生の間は好きなものなんかない。とにかく勉強せよ。それが研究者への道だ。研究しているうちに初めて、自分が何を面白がっているか分かるようになるものだ」とか、「研究者になるための教育と、社会人の教養養成のための教育は全く別物で分けて考えなければならない」、そういう声が今にも聞こえて来そうだが、それはそれとして、大学生には大学生なりの知的好奇心があり、知りたい学びたいという欲求があるのだ。だいたい入学したときは、大学というのはどんなところかという素朴な好奇心も手伝って「勉強しよう」と希望に燃えているものである。それが、講義を受け始めると途端に消えてしまう。それはやはりどこかおかしいし、何よりもったいない。彼らの欲求に答えつつ、物理の面白さを伝えるような講義をすることが必要なのだ、独りよがりの講義ではなく。一度、学生が何を勉強したいと考えているのか、掘り起こしてみてはどうだろうか。全くモチベーションのない人間などいないのだから。学生が自分自身の視野を広げること、そしてそれを助けるのも大学の役割であるはずだ。

 大学生の授業態度はますます悪化しつつあると聞く。昔は、ある程度以上態度の悪かった学生は大学に来なかった。ところが最近は、友人と会うために講義室には一応来るらしい。では、最近の大学生には知的好奇心がないのか。そんなことはない。知的好奇心が講義によって引き出されるかどうか、そこが問題なのだ。中には、講義をいやいややっている教官もいるだろう。ひたすら黒板に向かってブツブツ言い続ける教官もいる。誰に向かって喋っているのか分からない教官もいる。そういう教官の背中には「こんなことをするよりも研究したいのに…」と書いてあったりする。あるいは自分だけが悦に入っている。やる気のない教官によるやる気のない講義は、学生の意欲を奪う。そして、やる気のない学生が作られる。

 これは教官個人の問題である。しかしながら、問題点は属人的な部分だけにあるのではない。

 大学教官の義務は3つある。1)研究、2)教育、3)大学の運営、の3つである。ところが、実際に教官が習熟しているのは1)だけである。2)や3)に関してはまさに素人。中には、それぞれのプロを目指して精進する教官もいる。だが、必ずしも大勢を占めていないのが現状だろう。

 その理由は明白だ。大学教官の義務は1)研究のみである、と考えている者が多いからだ。そして、大学教官の評価は教育業績に対してはほとんど与えられない。研究に関する面のみが評価されるのである。この構造が大学の教育改革を困難にしている。教育改革問題は大学そのものの抱える構造的問題でもあるのだ。

 これらの問題のツケを、最後に回されるのが社会である。「そんなことはない、社会が大学に問題を投げ込んで来るのだ」と考えている方にははっきり言おう、それは間違いだ。一般企業は、大学を卒業してきた連中は役に立たない、とこれまた思っている。大学までに一体何を学んできたのか、と。これまではそれは採用側も納得ずくだった。そのために入社後に研修が行われるわけだ。最近はそれだけの余裕がなくなり、在学中に実社会を「予習」させるインターンシップも徐々に導入されつつある。大学からすれば「青田刈り」に見えるこの制度も、企業に言わせれば「社会貢献みたいなもの」だという。役に立たない学生を教育するための、である。大学は、役に立たない学生を生産するところだと思われているのである。

 大学は3種類の役割を背負わされている。研究者を養成する機関、リベラルアーツ、教養を身につけるための機関、そして社会へ貢献する学生を養成する場所としての機関。これらが相互に絡み合っている。これまでは卒業生を受け入れる社会にある程度余裕があった。だが(少なくとも短期的には)社会は余裕を失いつつある。これからは社会から大学への要求も厳しくなってくると考えた方が良いと思う。

 これにはもちろん反論もあるとおもう。大学は社会の風潮なんぞに惑わされてはダメだ、と。そうかもしれない。そういう一面もあるだろう。だが、それならば大学はもっと自己主張しなければならない。自分たちの存在価値をアピールしなければならない。

 研究者の多くは、自分たちの仲間以外のコミュニティーに、自分たちの研究成果を開陳しようとしない。簡単に言えば、論文書き以外のことをしない、ということだ。私に言わせれば、これは納税者への義務を怠っている行為である。大学あるいは研究者は、「研究職」が何故存在できるのかもっと考えるべきである。社会においてある役職が存在し続ける為には、その役職は何らかの機能を果たさねばならない。研究者も例外ではない。そして、社会が研究者に求めていることは、研究のみをひたすらすることではない。その成果を、社会に広く還元することが求められているのだ。還元とは別に金銭的利益をもたらすことだけではない。「この研究は何の役にたつのですか?」という質問には今日明日にすぐ役立てて欲しいという気持ちしか込められていないわけではない。知的好奇心は誰にでもある。別に研究者になっていない人にも、それはあるのだ。だから「何のために」という問いに対して答えるのに「知的好奇心を満足させるためです」と言うのも、立派な回答なのである。せめて、それくらいは胸を張って答えて欲しいと思う。

 社会に対して成果を明らかにしても何もペイバックされない、という考え方を持っている人もいるようだ。だがそれはあべこべなのである。社会が大学を抱えているのであって、逆ではない。社会は、貸し付けていた分をちょっと返してもらおうと考えているだけなのだ。だから、社会が大学に成果を見せるよう頼んだ時は応じて頂きたい。科学は文化だ。文化育成に対する見返りを社会は時々必要とするのである。

「物理は難しい」という印象を持っている人は多い。ほとんどの人がそうだ。「難しそう」が「嫌い」に変わり、やがて「無関心」へ繋がるのに、そう時間はかからない。

 教育問題は社会問題である。だったら社会が考えろ、俺は研究する、という態度はもう許されない。「社会問題である」ということは、社会に解決をまかせれば良い、ということではない。当たり前の話ばかりで恐縮だが、社会は一つのシステムである。大学はその中のサブシステムだ。大学に投入される予算や人員は、どこからともなく現れるわけではない。全ては相関しているし、正のフィードバックも負のフィードバックも必ずある。

 大学は本来、来たい人間だけが来るところ。やる気のない学生は出て行けというのは正論である。勉強は必ずしも楽しくなければならないというのはおかしい、勉強はつらくて当たり前だ、というのもまた正論だ。だが、やる気のない人間を放り出せば問題は解決するのか。それは教育機関としての役割の放棄である。また、勉強はつらくて当たり前だというのも正しくはあるがどこか「ずれている」事は皆が感じていると思う。研究者たちは研究したくて研究している。その楽しさを講義室と大学外で伝えていくことが必要ではないか。

 教育とは、教え・育つこと。大学教員にも、学生の心・能力は発育途上であることを忘れて欲しくない。


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