ネットワークと教育


この小文は95年夏頃、さる事情によって書き起こしたものですが、そのままハードディスクにお蔵入りになっていたものです。この度(96.3)、ちょっとだけ書き直して公開することに致しました。御意見等、お待ちしております。

森山和道


  1. はじめに
  2. ネットワークで教育現場は変わるか
  3. コンピュータネットワークはどのように導入されていくのか
  4. コンピュータネットワークの活用と、それがもたらすもの
    1. 生徒が、自己の興味・関心を深めるための学習に使用
    2. 教育者の知識向上(教師の生涯学習)
    3. 情報発信
  5. ネットワークが情報教育に果たす役割 情報教育とは
  6. ネットワークは教育現場に何をもたらすか
  7. 学校へのネットワークの導入 教師の業務とネットワーク
  8. 生徒たちとネットワーク、あるいはデジタルテクノロジー

【はじめに】

ネットワークは無限の可能性を持つ。
しかし、「可能性を持つ」という事と「実現する」という事は同一ではない。

例えば、まずネットワークそのものが持つ根本的な問題がある。
コンピュータをネットワークして使うことそのものには、大きな利点がある。ここまではネットワーク使用者なら誰もが認めることだが、現在Internetブームに乗って唱えられていることには大きな誤解がある。 いわく「必要な情報がいながらにして手に入る」だとか「これは新時代の幕開けだ」とか、そういった類のものだ。あなたもどこかで聞いたことがあるだろう。

これは、ウソである。完全なウソではないが、95%ぐらいはウソだ。

実際使ってみれば分かることだが、ネットワークにはゴミが多く浮遊している。その中から重要なものを探すのにはテクニックがいる。だから、「サーチャー」といったデータベース検索を専門にする職業が成り立つのだ。必要な情報を短時間で手に入れるのは難しい。

情報がネットワーク上に存在している分にはまだいい。必要な情報は、まだまだ足りない。ネットワーク上の情報量・質は圧倒的に現実世界に負けている。
ネットニュースはまさにゴミの塊に近く、ほとんど読む価値がない。ネットワークそのものの信頼性も低く、電子メールさえも配送が遅れる。レスポンスは遅く、グラフィックは汚い。ヴァーチャル美術館など見るヒマがあったら、本屋に行って美術書を買う方がいい。その方が、コストも安い。

だから、ネットワークに過大な期待はしないことだ。
ネットワークは不完全なツールであり、不完全であるが故に使用者によってその顔を変える。誰にでもにっこり微笑んでくれるわけではない。

ならば何故、ネットワーカーはネットワークを使うのか?
その将来について何やらブツブツ言っているのは何故なのか?

「不完全であること」に、巨大な可能性を見るからだ。
私もその一人であるし、ネットワーク使用者の多くがその一人であろう。ネットワークには欠点を補ってあまりある利点があり、「何か」を期待させてくれるものがある。それがなんなのか、多くの人間が考えているが、まだその正体は見えないし、どのような変化が起きるのかも分からない。しかしながら、変化は、起こってしまった後ではじめて認識されるものだ。ネットワークによる変化もそうだろう。

変化するだろう現場の一つに教育がある。K12、Global Schoolhouse、また100校プロジェクトなど、教育にInternetやマルチメディアを利用する様々な計画も動いている。以下の論考では、教育現場にツールとしてのネットワークが導入されたとき、実際に起こるだろう事柄にはどういうものがあるか、考えてみる。


【ネットワークで教育現場は変わるか】

現場は、ほとんど変化しないかもしれない。
どのような道具が使われるにせよ、教育の基本がマン・ツー・マンである事に変化はないからだ。

しかしながら、「どのような形でマン・ツー・マンが行われるか」という点に限って考えてみれば、従来の教育方法も取り込みつつネットワークを十分に活用すれば、「遠隔教育」「オンデマンド教育」「在宅教育」の可能性があるだろう事は誰でも思いつける。

これらは「通信教育(放送教育を含む)」という形で現在も行われている。
そして、改良を望む声──例えば、見たいと思った時間に視聴できるようにならないか、また動画・音声を取り込んだ資料集・あるいは教科書はできないか──に答える形をコンピュータネットワークで実現していくことになろう。

多面的な顔を持つ教育。そのうち「知識を得る」という一面だけに限れば、教育形態・体系はネットワーク導入と共に根本的に変わりうるかも知れない事が分かる。そして、それは、「教育」の他の様々な面を変容させていく可能性を秘めている。

しかしながら、現実を見ると、ネットワークが導入されても、実際に機能して運用されるかどうかは別問題ではないのか、という不安・疑念がある。
そこで、様々な問題点や変化の可能性を考えつつ、教育とネットワークの関わり方について考えてみたい。


【コンピュータネットワークはどのように導入されていくのか】

コンピュータネットワークはどのように導入されていくのか?考えてみよう。
可能性としては2種類ある。

1)上からの命令(トップダウン)。
2)教員自らが自分たちのコンピュータをネットワークし始める(ボトムアップ)。

上記2点とも、徐々に起こっている流れだが、どちらも、うまくいってないようだ。
ネットワークは、当然繋ぐ相手が必要だが、学校内では教師全員がコンピュータを使っているわけではないし、そうすると必然的に学校外へのネットワーク(学校間ネットワーク)も、人と人を繋ぐものとはなりえず、単に端末が教官室にひっそりと佇んでいるに過ぎない所が多い。もちろん、生徒がコンピュータを使うことなど、全くない学校がほとんどである。
これらの原因は、根本的な問題──教育現場にネットワーク、あるいはコンピュータは必要なのか──が解決していないからだ。

では、仮に導入された場合、コンピュータはどのように使われるだろうか?
逆にこちらの点から考えてみよう。その結果、教育にコンピュータというものがどのような役割を果たすのか見えてくるかも知れない。


【コンピュータネットワークの活用と、それがもたらすもの】

様々な使い方ができるコンピュータだが、以下の3点の使用に集約される、と考える。

1)生徒が、自己の興味・関心を深めるための学習に使用。

ネットワーク上に掲載されている情報にアクセス・閲覧することはたやすい。
たしかに、現状ではネットワーク上にない情報も数多い。しかしながら、今後ネットワーク上の情報はますます増大し続けるだろう。
そうした情報氾濫時代のネットワークを想定すると、どうなるか?

まず、自ら興味を持った範囲のことを調べるのが容易になる。興味の赴くまま、自由に知識の世界を探求することが出来る。しかも無料である。直接世界的権威と「会話」することも可能であるし、わざわざ図書館に出かける手間も省ける。

ただし、現実問題として、生徒が研究者にダイレクトにメールを出すことはほとんどあるまい。そのような積極性を示すほどの生徒ならば、ネットワークがあろうとなかろうと、その積極性は示されているだろう。

ただ、これまでのメディアを通じた情報へのアクセスには興味のなかった生徒の中で、コンピュータネットワークを使って初めて、アクセスする気になる者もいるかも知れない。
ネットワークは、新たな学習意欲の発露のきっかけとなりうるかもしれない。これが、コンピュータを導入することの大きな意義の一つかも知れない。

問題もある。ネットワーク世界も現実世界と同様煩雑なものになっていくと考えられる、という事だ。ネットワークによる検索を、おっくうに感じる者も多いだろう。
そして根本的な問題がある。そもそも「興味を持たない」生徒がほとんどだろう、ということだ。

図書館はどの学校にもあるし、そこには膨大な情報がある。しかし、皆が皆、図書館を活用するかというと、そうではない。

現実世界の図書館教育などが抱える問題点──情報を閲覧させる「動機」と、実際の閲覧という「アクション」が少ない──は、ネットワーク世界にそのまま持ち込まれると考えられる。

ただ、ネットワークの利点は、ひとたび動機が生まれれば、実際に「アクション」するまでに要する手順は非常に少なく、しかも一次情報に触れられることである。このことが学習者のアクションまでの道筋を短縮化するかもしれない。

よって、教育者の役割は現実世界に対する興味の植え付け(動機づけ)であり、その発展(アクション)である。これまでと全く変わらない。
つまり、「生徒の開発・啓発」であり、情報の海の泳ぎ方を教える「情報教育」が必要なのだ。

既にネットワーク世界は情報過多であり「欲しい情報を欲しいときに」は幻想に成りつつある。情報過多を防ぎ、良き情報の羅針盤(ナビゲーション)となることが、教師の努めの一つとなるだろう。

うまく機能すれば、ネットワークは生徒の知的好奇心を増大させるのに、大変便利なツールとなるだろう。

2)教育者の知識向上(教師の生涯学習)

生徒の自己啓発を望むなら、当然、教育者自らも啓発しなければならない。

現場の教師の多くは多忙を理由に勉強しない。
しかしながら、ネットワークがひとたび導入され、生徒が直接世界中の情報リソースにダイレクトに接触できるようになると教師は、前項で触れた、情報の大体の「方角」を教えてやる「ナビゲーター」としての役割と共に、情報のありかをある程度「特定」する「ロケーター」としての役割も求められる事になろう。

これは、生徒に質問されたとき、「ああ、その答えはこの本に出ているよ」と答える能力に似ている。これができない教師はかなりいるが、ネットワーク──つまり一つの世界そのものと同じくらいの広さを持ったサイバースペース──もこれに加わるのだ。「ああ、その答えはこのサイトにあるよ」と答える能力、あるいはそこまで行かなくてもせめて、探し当てる能力が必要とされる。 これはある程度技術的な側面も持っているが、これができない教師は、時代に取り残されるかもしれない。教師の一層の自己研鑽が必要になるだろう。

情報の海の泳ぎ方を教えるのなら、自分も泳げなければならないのは当然だ。
ウェッブを自由自在に渡り歩けなければならない。蜘蛛の巣に引っかかるようでは駄目だ。

それだけではない。日進月歩で進む最前線の研究が絶えずアップデートされるネットワークに触れるということは、「情報接触」という面では教師と生徒が同じラインに並ぶということである。 これまでは、生徒もあまり情報に触れることがなかったかもしれない。ところが、より若い世代は、コンピュータにより「近い」。ネットワークへのアクセス時間も教師よりも長いかも知れない。教師よりも物事に詳しい生徒が続出することになるかもしれない。それはそれで喜ばしいことであるが、教師も絶えまない学習をしないと、生徒から相手にされなくなることは必至である。

「先生、先生が言ったことは違うって、アメリカの○○博士が言ってましたよ」といった発言が授業で飛び出したとき、教師はどんな答えを返すのだろうか。
英語教官は、実際のネイティブと交流する能力がなければ、全く話にならなくなるだろう。
社会科の教師は、頻繁にネットワークを通じて生の情報にアクセスしなければならなくなるだろう。でないと、「現地の誰それによると、先生が言ったことと違いますよ」ということになりかねない。
理科教員も同様である。

今まで「教師」という職業を盾に被っていた、「教育者」としての権威が失われる可能性がある。教師の質の向上が、これまでにないシビアさで求められる。

幸いなことに、ネットワークは生徒の能力向上にも役立つが、教師の能力向上にも有用である。マスコミによる編集前の、膨大な量の生資料がアクセスを待っている。アクセスしなければ、存在しないも同然であるが。

どこにどんな情報があるのか、もし分からなければ、そんなことは教師同士で造られるであろうネットワーク・コミュニティーに電子メールで尋ねれば、誰か答えてくれるだろう。

あるいは、そんなことも面倒だし、ヒマがない、という方、あなたはマスコミの新商売のターゲットである。
マルチメディア時代の放送・出版界は、膨大なデータベースの中から、「当社のおすすめ」を編集して提供することになるだろう。そして、編集後のモノを、面倒くさがりは使うことになる。

(このように考えると、生の情報にアクセスする一般の人は本当に存在するのだろうか、と考えてしまう。結局はマスコミのお仕着せが一番便利で楽だ、ということになってしまうのだろうか。教員が多忙を理由に何かを始めることを拒むのを見る度に、私はそう感じる。また、規格化された教材・試験問題の方が受験勉強に励む生徒にも好評かもしれない)

3)情報発信

ネットワークのもう一つのポイントは情報発信である。情報を得たいと考え、探り当て、閲覧するだけではなく、獲得した情報の「活用」が問題になってくる。広い意味での情報の編集能力、プレゼン能力が必要となる。

例えば、大学には卒業論文というモノがあるのに、現在の大学では「論文の書き方」と題する講義はない。これは、致命的なことであると私は思う。
「そんなことは今までに身についてるだろう!でなかったら自分で勉強しろ」というのが大学教官の言い分だろうが、それは勘違いである。そんなことを教える「授業」はないし、学生は体系づけられた知識としての表現法を身につけていない。
そもそも、問題があることを認識していないから勉強のニーズを感じていない。

論文とは、内容を簡明に顕す<タイトル>、「何を言いたいか」をはっきりさせる<ねらい>、明確かつ論理的な章立てから造られる<構成>、そして<結論>が必要であることを教えない。 さらに、ネットワーク上で発信するのが「論文」であるなら、以上の要素だけで良いが、「読んでもらいたい」と考えるのであれば、<演出>も必要となってくる。そして、もちろん何よりも「やろう!」と考える<企画>技術が必要である。よく、企画は能力だ、と語る人がいるが、企画は、技術として学びうる。

これらの技術は、生徒が学校生活を送る上だけでなく、将来社会に出てからも明らかに必要とされる能力である。
従来はこれらの要素を教えるのは理科の「自由研究」であったり、国語の「作文」であったりしたのだろうが、現在授業数は減り続けている。ネットワーク時代には、これらの授業を復活させ、体系づけて学ぶ必要があるのではないだろうか。

ネットワークは、情報教育の格好の動機付けになろう。

以上の3点がネットワークが教育と直接にかかわる部分である。


【ネットワークが情報教育に果たす役割】

お読みになって頂ければお分かりの通り、全てどこかで聞いたような内容である。
つまり、筆者が述べたいことは、盛んに叫ばれ続けている「情報教育」の必要性が飛躍的に増大する、ということであり、さして目新しい視点を呈示したいわけではない。

もちろん、私がここでいう「情報教育」とは、コンピュータやアプリケーションの使い方のことを指して言っているのではない。「情報教育」とは、情報を獲得し、取捨選択し、編集・構成し、それを演出・発表する能力を養うことだ、と考えている。
つまり、作文だとか、自由研究だとか、広い意味での部活動などが「情報教育」だと考えている。

コンピュータは、その上で使うためのツールである。鉛筆の使い方や削り方、あるいは持ち方が教育だと考える人はさしていないだろう。学習を始める折りにはそれは必要だが、本質ではない。
そして、最近の学生の多くはコンピュータは見慣れており、実際に触ったことがない者でもすぐ慣れてしまう。私自身、キーボードに触ったことが全くなかった学生が、見る間に習熟し、プラグラムを駆使するようになるのを何度も見た。

教育現場で必要なのは、そのコンピュータ操作の前の、情報の扱い方の基礎を叩き込むことである。プログラムを教えても、生徒が実際に使う必要が出てくる頃にはそれは時代遅れになってしまうかもしれない。だから、そんなことは授業で教えてもなんの意味もない。生徒も動機が見いだせないからやる気がしない。
しかしながら、情報の海の泳ぎ方は別である。この知識・技能は将来何をするにしても、必須である。

これまで、情報教育はなおざりにされてきた。その結果は書店で見ることが出来る。
サラリーマンの多くが「情報整理」の書籍を購入し、「なんとか整理法」に挑戦する。「引き出しの整理のしかた」を教わる小学生と同じである。小学校時代に、きちんと「根本的な考え方」から教わらないから、いまさら「勉強」しなくてはいけなくなるのだ。「企画術」「読書方」「しゃべりかた」「人脈のつくりかた」「プレゼン方」などなど、マニュアル型の書籍に掲載されていること、これらは全て、学校で「情報教育」されなかった人々の為の書籍である。

情報の海はこれからまだまだ深く広くなる。ネットワークも同じだ。繰り返しになるが、ネットワークの情報の海はまだまだ浅い。まだ、泳ぐこともできるし、船で遠出も簡単だ。万が一、船に穴が空いても足が立つ。溺れずにすむ。もちろん、ところどころ深い所もあるが(中には底なしの場所もある!)、そういうところにはちゃんと標識が立っている。しかし、これからはどんどん深くなる。海どころか、宇宙のような空間になっていく。何がどこにあるのか、さっぱり分からなくなる。

今でも、検索エンジンを使えない人がいる。「いらないものが一杯ひっかかる」と言う。
それは「自分が本当に欲しい情報が何か」認識できていないからだ。自分が「本当に欲しい情報」が何か分かっていれば、情報を絞り込むキーワードを探すことは難しくない。

何が大切な情報なのか、何が情報の本質なのか、見抜く能力を身につけていれば、迷子になることはない。「キー」になる情報は、自分が本当に欲しいと常日頃考えていれば、自ずとその「輝き」が見えてくるものだ。もちろん、そのためには情報の宇宙に日頃から慣れ親しむ必要がある。


【ネットワークは教育現場に何をもたらすか】

ここで、ネットワークを使う上での「弊害(と誤解)」についても述べておきたい。そして、ネットワークが教育現場の体制にどのような影響を与えるか、考えてみる。

一番多いのが、単なる機器操作の技術にのみ終始することである。コンピュータの「使い方」を教えて何になるのか。自動洗濯機の使い方を教える事と同様、全く無意味である。

また、よく、ネットワークを使えば「国際交流ができ、国際理解に繋がる」と高らかに歌い上げる人々がいるが、それには単純に賛成できない。たしかにネットワークを使えば「交流」は当たり前に出来る。実際マルチメディア授業というモノには「交流授業」が多いようだ。

しかし、「交流」は「交流」であり、そのこと自体は取り立てて言うほどのことではない。外国に電話が通じた、と言ったって何にもならないことはお分かりだろう。英語、あるいは外国語学習の動機づけにはなるだろうが、留学した人間が皆視野が広いかというと、そんなことはないのと同様で、交流さえすれば単純に視野が広がるわけではない。問題は、何を交流するかであり、何を考えるかであり、どのように行動するかである。また、その交流体験がどのように将来に反映するかである。

そもそも、そんなことを授業でやる必要があるのか。授業で行うということは、程度の差こそあれ「強制」である。強制された交流など、なんの意味があるのか。「友人」は強制されて出来るものではない。交流は生徒の自発性にまかせるべきで、教師はあくまで補助に徹するべきである。例えば語学の問題や、意志疎通の上で誤解が生じた場合(つまりネットワーク上のケンカ)の仲裁など、教師の仕事はいくらでもある。

また、皮肉なことだが、情報に平等に触れられることによって生まれる「情報格差」もこれまで以上に増大することだろう。「知る」生徒と「知らない」生徒の間の差は、これまでよりもさらに増える。いわゆる「情報弱者」問題は、教育現場にも入り込んでくる。現場は新しい対策を講じる必要がでてくるだろう。

もし変化に対応できなければ、現在のような教育現場そのものが、意味を失い崩壊するかも知れない。
例えば、今日の教育現場では生徒が教師を選ぶことはほぼ不可能である。ところが、ネットワークによって相互接続された教育環境では、生徒に「教師を選ぶ」権利を与えることは大変容易であり、かつそれは起こりうることだろう。
生徒は、自ら学びたいことを学びたい人間に学んでいくようになるかもしれない。学びたがらない生徒との格差は、限りなく開いていくかも知れない。そのような現場で、どのような授業が可能になるのだろうか。

海外の教育形態──例えばイギリスでは、高校生の段階で、生徒の学習範囲は限定されている。ほとんど自分の興味を持つ範囲のことしか学習しないし、しかも極めて細分化されているという。そういった形に日本の教育も変化していくかもしれない。大学進学率をはじめとして、様々な変化が起こりうるだろう。

(現状では、日本の教育現場では問題は起こっていない。その最大の理由は、言語の壁である。日本は日本語という特殊環境のもと、好む好まざるに関わらず「情報鎖国」になりつつある。)


【学校へのネットワークの導入 教師の業務とネットワーク】

さて、次に教師の業務とネットワークについて考えてみよう。
教師は煩雑な日常業務を大量に抱えている。これをネットワーク導入で軽減することはおそらく可能であるが、日本の学校では困難かもしれない。

教師の多くがコンピュータを使用していないからだ。文部省や、各教育委員会からの文書がE-textで回覧されてくるわけでもないし、その結果、学校内LANが引かれているところはほとんどなく、教員の多くはその必要性を感じておらず、よって導入の予定もない。
Internetに接続している学校ですら、多くの場合、教師個人の(テスト問題をつくったりする、日常業務用の)コンピュータは接続されていない。

こういった現場に、ネットワークはどうやって入り込んでいくのか。どう使えるか、という議論以前に、現状では導入すらも困難だ。

教育現場は変化を嫌う。教師は独自のスタイルを持ち、滅多なことではそれを変えないし、他人の意見を聞くこともほとんどない。一方、ネットワークは変化の権化のような存在である。最も保守的な存在が、もっとも変化に富む媒体と出会うわけだ。

誰も知らない人からいきなりメールが飛んでくる、情報獲得は流動的なハイパーリンクと検索エンジン、情報の閲覧はマルチメディアだし、訪れたサイトの内容は次の日には変化しているかもしれない。そんな環境である。

このような環境を、どのように活用して授業のシナリオを描いていくのか?教材として使えるのか?とりあえず接続された学校の教員は、そういう不安を持っているようだ。

学校は拒否反応を起こすかも知れない。ネットワークを排除しようとするかもしれない。しかしながら、もし、生徒一人一人がノートを持ち歩くようにコンピュータを持つような時代が来たら…、と考えずにはいられない。その時学校はどうするのだろうか。

コンピュータは「持ち込み禁止」にするのだろうか。そうすれば生徒はどうするだろう?ネットワークに接続し、「俺が通ってる学校の校則はこんなに厳しいんだ!なんとかしてくれ!」とサイバースペースに「大声で」叫ぶかも知れない。
これは根拠のない妄想ではないし、既に個人はそれだけの「力」を持ってしまっている。


【生徒たちとネットワーク、あるいはデジタルテクノロジー】

コンピュータネットワークに対するアクションは、おそらく、生徒の動きのほうが早いだろう。 東京の山手線に乗り、乗客を観察していて、気がついたことがある。30代以上の人間は、ラジオを聴いている。ところが、より若い世代の多くは、WALKMANなどを使い、「自分で編集した」テープを聴いている。

自分の聴きたい曲だけを聴きたいときに聞く若い世代と、一方的に流される情報を、ただ受け身で聞いている世代──ここには見た目に感じる以上に大きな差がある。

よく言われることだが、コンピュータは、その使用者の年齢に応じて全く違う存在として捉えられている。

40代以上には、「コンピュータ?いや、僕たちは全く分からないからねえ。君たち頼むよ」といった人々が多い。

30代は、そこまでの苦手意識はないが、かといって得意でもない、という人々である。その年齢のため、職場でもある程度責任を持たされる事が多いせいか、コンピュータの有用性は認めるが、彼らにとってコンピュータとはあくまで仕事の道具であり、それ以上の機能を求めはしない。「ワープロ」としてコンピュータを使うことの多い世代である。

20代は、家庭用ゲーム機と、カラーテレビの世代である。コンピュータをごく若い年齢から使い慣れている者も多い。コンピュータを使うことは決して苦痛ではなく、遊びと仕事が同じマシンの中で共存している世代である。

10代になると、生まれたときからコンピュータ(ゲーム機)があり、テレビにテレビ以外のモノが映るのが当たり前の世代になる。

学生の情報の受けとめ方と使用法は、教員世代と大きくかけ離れているのだ。この差は、デジタル化が進むと共に、さらに大きくなっていくだろう。
やがて生徒は、ほったらかしておいても、コンピュータを情報取材・編集用のプラットフォームとして、現在の紙やペン、ハサミの代わりに自在に使うようになるだろう。生徒の側から、本当のボトムアップからのネットワークが、発展していくかも知れない。

事実、高校生の多くはポケベルを持ち歩いているではないか。大げさな言い方かもしれないが、彼らのポケベルは、一種の「電子メール端末」の役割を果たしている。現在、インテリジェントなポケベルを造り、e-mailのやりとりが出来るようにしようという動きは各メーカーで始まっているし、コンピュータ搭載の、より「賢い」携帯電話も開発中と聞いている。もちろん、コンピュータの多くは将来電話を内蔵するようになるだろう。彼らは、これらの電子機器を軽々と使いこなす。電子機器の発達と足並みを合わせ、彼らの使い方がさらに発展して行くだろう事は疑いの余地がない。

このように考えると、生徒よりも教師、あるいは管理職にこそ、デジタル教育とコンピュータネットワーキングは必要かもしれない。

コンピュータが教育現場に必要か否か──この問いが発せられる時代になっていること自体が、答えなのではないだろうか。少なくとも、教育現場のあり方、あるいは「教育」そのものを根本から考え直す、良い機会であることは疑問の余地がない。

近年、「いじめ」問題、教師の不祥事など、学校に対する信頼は大きく揺らいでいる。単に知識を獲得することが教育であるなら、別に学校に行く必要はない。事実、大検の受験者・合格者も増大傾向にある。

しかし、教育とは、知識の詰め込みのことではないだろう。「しかし受験を考えると、現実問題として詰め込みにならざるを得ない」「文部省が悪い」という声が聞こえてきそうだ。確かにそれも一理ある。しかし、責任を他所に見いだすのではなく、取りあえず現場でできることをやって頂きたいと思う。教師自身が「自分は何を教えたいのか」と絶えず問いかけ、確固とした目的意識を持ち、自分自身が教えたいことを教えていけば、文部省がどうしたとか、受験制度がなんだ、とかいった事は関係ないだろう。「そんなことをしていたら受験教育に負ける」というのならば、それは「教え方」が間違っているのだ。「教育」、それも現場での直接的な教育は、「詰め込み」に負けるほど弱いものではない。

それと同じ事で、私は「ネットワークは教育を変えない」のではないか、と考えている。教育とは、それほど甘いものではない。現場で直接空気に触れ、人に会い、話す、こういった事をヌキにした教育はあり得ない。「教育がネットワークを変える」事はあり得るかもしれないが。

例えば、教育的なテレビを視聴する時のことを考えてみよう。近年は、NHKだけではなく、各民放も教育番組を制作・放送している。さて、ブラウン管の中では「授業」が行われている。しかし、そこに立っている教師の耳には生徒たちの声は聞こえない。リアクションも見えない。生徒も、質問をすることはできない。

将来マルチメディア時代には、スタジオで教師が生徒達の様子をモニターで見ながら、テレビ授業をする、といったことが当たり前になるかも知れない。既にこのような形態での授業は、ある予備校で行われている。しかし、これは、予備校という環境でのみ意味をなす形態なのではないだろうか。生徒の側が積極的に学習しようと思って、初めて実現し、意味を持つ形態である。
生徒は、既存の学校システムの中でも、そんなに積極的になるだろうか。
もしなるのなら、予備校になど行かなくても良いのではないか。

私は、コンピュータネットワークは教師の自己研鑽にこそ、使われるべきだと考えている。もちろん、業務の軽減化も計れるだろうし、最初はまず、それを目的にLAN構築やインターネットへの接続を考えるのが賢明だろうと思う。最近流行のイントラネットで構築するのもいいだろう。

生徒ではなく、教師にこそ使われるべきだというもう一つの理由は、実は、生徒はあまり活用しないのではないか、と考えている為でもある。最初はもの珍しさで色々と触るだろうが、目的がなければネットサーフィンなどすぐに飽きが来る。しかし、教師は毎日毎日授業をしている。新しいネタを探すのにはネットはちょうど良い。

また、現在のマルチメディア・タイトルには致命的な弱点がある。それは「ながら」ができない、ということである。例えば、音声や動画一つ再生するのにもわざわざボタンをクリックしなければならない。テレビやラジオを見よ。そんなことをする必要は全くない。ただ、チャンネルボタンを一回合わせれば良い。つまらなければ変えればいい。全く違う番組が提供されている。これはインタラクティブとは言えないのだろうか?

マルチメディア・ソフトとは、非常に能動的・積極的アクセスを要求されるメディアなのである。ただ、ボウっと見る、ということができない。例えば文庫本を読みながらCD-ROMは見られない。これではダメだ。
少なくとも瞬間的に反応し、また、閲覧者にもそれを要求するようなものでなければ、ダメだろう。つまりテレビゲームのように、だ。

これからの教育現場には<マルチメディア教材>なるものが氾濫する、と言っている人もいるが、私はこれは疑問だと思う。もし普及するとすれば、それはせいぜい事典のようなものだけだろう。
時折、マルチメディアで電子新聞を造りました、という新聞記事や雑誌記事を見受ける。しかし、それが何の役に立つのか?それが、本当に生徒の情報教育の為になるのだろうか?
8mmで映像を撮影する人は最近多くなったが、本当にそれはビデオに撮る必要があるのか。そんなに何度も見るだろうか。せいぜい「成長の記録」とかタイトルをつけて、10年に一度見ればいい方だろう。まあ、それは確かに楽しいが、ほとんど資料としての価値はない。

マルチメディア時代──とは、10年に一度しか閲覧されない資料を、どんどんどんどん蓄積していく時代なのかもしれない。

そういう風に考えていくと、別に教育現場にコンピュータ・ネットワークなんか必要ないんじゃないか──そんな風に思えてくるかもしれない。しかし、それは違う。各人が全く違う目的で蓄積したデータベースや、全く違う目的のために造られたネットワークがシームレスに繋がっていくのが「ネットワーク時代」である。全く違う知識・思考方を、全世界規模で共有することができるのだ。

例えば、それぞれの教師が自分の授業ノート・データベースを構築し、公開する。それは巨大な授業のデータベースとなるだろう。それだけで、全く違う授業が生まれるかもしれない。

教育現場は、否応なく変わっていくだろう。それどころか、変化は社会的な要求でもある。時代は変わりつつある。教育現場は、デジタル時代に対応していかなくてはならない。そのためには、教師自らがネットワークを活用することが必要であることはいうまでもない。自分が使っていないものの可能性や活用法を、どうして生徒に教えることができようか。そのためには行政側もデジタル化する必要がある。全てをいきなりデジタル化することは不可能であろう。しかし、デジタル判子を開発した会社もある。徐々にで良いから、デジタル化・ネットワーク化していけば良い。その上で現在全く見えなかった教育方も見えてくるだろう。

なにしろ、教育終了後の生徒たちが、ネットワークされたデジタル社会に放り出されることだけは間違いないのだから。


【参考文献】

●西岡文彦著 「編集的発想(JICC)」は非常に面白く、情報教育を考える上でも役に立つのではないか、と思います。
●ほか、多数
(だと思います。この文を書く上で、何かを左手にしながら書いた、ということはありませんが、ここに書き連ねたことの多くには、たぶん今までの読書経験が大きく影響していると思いますので)
森山和道