『日経サイエンス』掲載・森山和道の読書日記・98年6月号

〜最後のサル、ヒト〜

 世の中には著者の提灯持ちから単なる感想、厳しい批判まで様々なスタイルの「書評」がある。ざっくり言えば書評とは、本を選ぶときの基準でありどう読むかの指標となるべきものだ。この新しく始まった書評欄のねらいは、店頭での最大の疑問──「要するに、この本は面白いの?」──に、できる限りお答えすることである。

 科学書は高い。高い金を散財するのだから、それなりに面白く、脳ミソを刺激してくれる本でなくては困る。なのに「面白いの?」に端的に答えてくれる書評はほとんどない。よって本欄では科学者でもなんでもない素人の私が、個人的に面白いと思った本を取り上げ、ご紹介する。なお内容に間違いがあればご指摘頂ければ幸いだが「そんなものは『書評』ではない。『書評』とは本の内容の評価を行うものであり云々」といったご意見は受け付けないのでそのつもりで。私は、私が面白いと思った本を独断で取り上げていく。では本題に入る。

 出版界の事情からか、はたまた分野の持つ勢いからか、似た内容の本が立て続けに出ることがある。最近は人間の行動や知能の起源を、進化的視点から理解しようとする本の刊行が多い。チンパンジーとヒトの共通祖先がいた時代に遡り、殺人や戦争など暴力の起源を求める『男の凶暴性はどこからきたか』はその1冊。オスの結束や集団間闘争などはヒトとチンパンジーの共通した特徴であり、食性とそれに伴って生じた社会構造の結果であるというのだ。著者は、ヒトやチンパンジーはある大きさの集団を形成し隣接集団を排除しようとする種であるという。なぜそのような行動が生まれるに至ったのか。繰り返しになるが、著者が重視するのは食性である。チンパンジーやヒトは果実や種子のような、ある季節には豊富にあるが別の季節には数が激減する、あるいは栄養価は非常に高いが獲得するのは難しい食料に依存している。食料の増減は集団形成のコストを変え、パーティ規模の変動を引き起こす。その結果、闘争にメリットが生ずるようになり、我々の祖先は暴力性を持つようになったという。類人猿の観察を通じて本書で示される考え方は非常に興味深いものであった。

 内容が一部重なっているのが『考えるサル』。『男の凶暴性は〜』が類人猿学的アプローチでヒトの暴力傾向に迫るのに対して、こちらは認知科学的な考察がメイン。心の進化論といった趣があり、その側面からも興味深く読める。もっとも、興味の根本が「霊長類の知能ははたして、生態環境への進化的適応なのか、それとも社会的な問題解決に対する進化的適応なのか」にある点は同じだ。つまり、知能は食うために進化したのか、それとも「社会問題」を解決するためのものとして進化してきたのか、という問題設定である。著者は、ヒトやチンパンジーの知能は社会的な側面によるとことが大きく、社会的問題解決能力として発達したのだろう、という。本書は心の進化を描こうとした部分はなかなか面白いのだが、肝心の問題についてはやや議論が不足しているように思えた。

 『利己的なサル、他人を思いやるサル』はヒトの道徳性の起源を問う。善や悪の観念、思いやりの感情や行動規範はどこから来ているのか?人間固有の文化由来のものなのか、それともやはり進化によって育まれてきたものなのか?本書の解答は、動物達にも道徳性はある、道徳性には進化的な由来がある、というものだ。サルや類人猿を主とした数々のエピソードが披露され論は展開する。なかなか面白いが、観察記録の場合どうしても主観の問題が入ってくる。この辺、研究手法をなんとかしないと誰もが納得するものは出てこないだろう。なかなか難しい。

 ヒトあるいは人間の進化的研究は「我々は何者か」を直接問う研究だ。今後の発展に注目していきたい。

もりやま・かずみち
サイエンスライター


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