『日経サイエンス』掲載・森山和道の読書日記・98年9月号

〜言語、認知、意識、世界観〜

 言葉は人の心を覗く窓だ。『チンパンジーが話せたら』は言語哲学の本。チンパンジーやヘレン・ケラーの言語習得過程を例にして、言語習得には「対話的要素」や「相互作用」が不可欠であると説く。つまり著者は言語は社会的コンテキストの中以外ではあり得えない存在であり、言語こそが「現実」を形作っているというのである。

 現実は言語によって認知される、という考え方は、否定されたり再検証されたりしているが、実際のところ言語と認知は、どのくらい関係があるのだろうか。

 『もし「右」や「左」がなかったら』は実に興味深い1冊。極めて思弁的である『チンパンジーが…』に対して、言葉がどのように空間・身体・世界を「切り取って」いるのか、フィールドワークでの仮説検証を通して明示する。タイトルにある「右」や「左」という空間軸、自分を中心にした相対座標を持たない文化・民族が存在するという話には、思わずハッとさせられた。左右の概念は、必ずしも普遍的なものではないのである。

 「言語人類学」の本なので、いわゆる科学書ではないのかもしれない。だが構成もすっきりしており、実証ベースで書かれているので、科学書読みにも大いに楽しめる本だ。人間はどのように空間を認知しているのかという問題に対して、一つの研究手法を鮮やかに示してくれる。

 全く違う空間の切り分け方を持つ人々がいる一方、人類に普遍的な世界観や認知も存在する。同じ身体を持つヒトという種である限り、ある程度当然の結果なのだろう。だが言語パターンの違いが、認知のパターンにそれなりの影響をもたらしていることも、間違いなさそうだ。認知空間の可塑性、それは抽象化能力の可塑性ということなのかもしれない。

 身体はヒトである限り共通だ。だが、腕といってもどこからどこまでが腕なのか、その切り分け方は言語によってバラバラ。もともと人間の身体に境界線はないのだから当たり前かもしれない。

 では、心はどこにあるか。いまのところ、心の座は脳だ、ということになっている。この考え方に哲学の立場から反論するのが『心-身のリアリズム』。神経系は単独では存在し得ないのだから、心は脳のみから発生するわけではない。よって心身問題と心脳問題はイコールではないと主張する。当然の主張だ、だからなんだ、という方もいるだろう。意識や心の問題は古来からの普遍的テーマだが、対象である「心」の定義すらない現状では、取り上げ方も難しい。

 『動物の意識 人間の意識』は単なる<動物に意識はあるか?>本に留まらない。意識に興味を持つ人は必読の一冊。随所にインサートされる3人の科学者(ロスチャイルド、グリフィン、エックルス)との対談も非常に面白い。若干、扱われている内容は古いが、それでも非常に面白い本である。

 著者は、動物にも心象を描いたり、ある程度先を予測したりする能力があると考える。その理由の一つには多くの動物に「模倣」が見られることを挙げている。時には全くの別種である他者の行動を模倣するには「自分自身の身体についてなんらかのイメージ」を持っていなければならないからである。動物、そして人間は、どういう世界観を持っているのだろうか。

もりやま・かずみち
サイエンスライター


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