「NEWTYPE」掲載<森山和道のサイエントランス>第1回

2003年04月号掲載

『額に『あ』を書く話』

 最近読んだ『自我が揺らぐとき』(岩波書店)という本の<解説>に、面白い話がのっていた。右利きの人ならば左手の掌の上に人差し指で文字を書くことは簡単だ(左利きの人は逆で)。実際に左手の掌に「あ」と書いてもらいたい。目をつぶっていても書けるだろう。

 その指をそのまま動かして、額に持ってくる。額の上で「あ」と書けるだろうか。途端に左右の感覚が失われたり、妙な感覚がする。これはなぜだろうか? 胸、肩、ほっぺたなどなど体の色んな部位に指で「あ」を書いて試してもらいたい。どこの部分までならきちんと書けるだろうか。

 額は視点と書く側(手)との向きが逆になるから難しいんじゃないのか、と思う人もいるだろう。だが僕は、胸にならごくごく当たり前に「あ」の字を書くことができる。ということは、向きが普段と逆だからといった話は通用しない。むしろ問題の本質は、胸だと文字の形が正確にイメージできるのに、額だとイメージできなくなるのはなぜか、そして指先をイメージに合わせて動かすことができないのはなぜか、という点にある。

 認知科学の実験には、他者に身体のいろいろなところに文字を書いてもらい、それがどう知覚されるのかというのを調べたものがあるそうだ。つまり、「b」とか「q」といった文字を書いてもらい、それが反転した形、つまり「d」や「p」として知覚されるかどうかを調べるのである。すると、ほとんどの部位では正しく知覚されるのだが、額や、外に向けられた手のひらや足の裏などでは反転して知覚される、という研究があるのだという。

 この錯覚は、人間は身体の場所別に「2つの座標系」を使い分けているために生じると考えられているそうだ。身体の多くの部位では「観察者中心座標」を用いており、自己を観察者の視点に置くことができる。しかし、額や相手にむけた手の平では身体中心座標に切り替わるため自己を観察者の視点に置くことができず、身体の内側からの視点を使うためbとdを混同すると考えられているのだという。この話はおそらく「額に『あ』を書く」ことの困難さと、深い関係がある。

 人間も、ある種の機械である。機械であるならば、どのような機械なのかということが問題だ。また、新たな視点で人間の体を見つめ直すことが、より深く人間自身のことを知るために役に立つ。たとえばロボットのアームならば、腕がどんな軌道を取って旋回していようとも、指先は同じように制御できるように設計するのが当然だと思う。だが、ほっぺたから額に指先を持ってきただけで途端に字が書けなくなるという現象は、人間の体がそんなに単純にできあがっているわけではないことを教えてくれる。

 ごくごく身近なところにも不思議と科学の入り口が隠されている。そしてその入り口は、自分たち自身の存在を探る深淵へと誘ってくれる――。


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